大正十三年四月一日創業
昭和十三年四月一日株式会社に改組

経 歴 書

株式会社  加藤製函所



経  歴  書
株式会社 加藤製函所
東京都千代田区神田司町二丁目九番地
電話 丸ノ内(231)四六九一 ・ 四六九三
代表取締役 加藤政次郎

設立
個人経営 加藤製函所 大正十三年四月一日
株式会社組織変更登記 昭和十三年四月一日


(会社創立までの経過)
代表者加藤政次郎は同郷の先輩にて紙函製造業者神田三河町一丁目五番地、中田仁三郎氏の中田紙器製造所に明治四十三年 十一月に入店致しました。当時の主家は三越呉服店の専属紙函工場でしたが得意先の註文系統の変更等のため取引停止となりましたので直ぐに森村組の輸出品、雑貨玩具の包装函の製造工場として大変忙しく成りました。
この時分は同業者も非常に少う御座いました。たまたま啓成社の名将言行録や精美堂?家庭百科辞典の函の製造を頼まれて機械等もなくひどく苦しみ乍らどうやら完納致しました。この事が私の一生を書籍函に向かはせました始めだったと思います。
そし序々に民友社、大倉書店、広文堂、玄黄社、国民文庫刊行会の函を作る様に成りましてからは道具等も順々に揃ひ段々専門化して参りました。
当時上記出版社以外に博文館、金港堂書籍会社、同文館、三省堂、国民中学会など全盛時代で新進の出版社として新潮社、岩波書店、講談社等が非常な勢いで発展して居りました、函も従って段々多くなり、大正五年頃から新潮社の、死の勝利、桜の園、サフォ、祗園情話、祗園夜話、昌子、牧水、勇ざん等の歌集が函入りになりました頃は殆ど専門化しました。
当時の関係業界としましては、印刷所としては秀英舎、凸版印刷会社、博文館印刷所、日清印刷会社等が大きく他を大きく離して居りました、製本所のうち上製本として金子、朝倉、村田、長野、佃、元風、大出、岩本、広岡、寺島、高崎等の製本所が大きかつたと思ひます。書籍函が多くなつた為め当時外部へ使い走りに廻って居りましたうちに上記印刷会社の方や製本所の方に非常に可愛がられ逐次出版社にも可愛がられ、特に岩波書店の岩波茂雄殿、新潮社佐藤義亮殿や中根駒十郎殿や国民文庫の鶴田久作殿、日清印刷会社竹内さん、本間さん、佃安松殿、大出製本所主、寺島製本所主殿に格別の御愛顧を受け、善の研究、哲学概論、世家とその弟子、生かさぬ仲、日本から日本、女優ナナ等の函を御註文戴きましたが設備が幼稚で手仕事が多く多忙で目のまわるようでした、これらの本はいづれも当時の言葉で洛陽の紙価高しと云われました程良く売れました。  なお、不如帰、金色夜叉など非常に大部数の出版物もありましたが、当店に函の関係が無いものは良く判りませんでした。又、この長い間には種々の事故もありました
神田の大火、又、御成街道を汽船の通つた大洪水、吉原の大火、洲崎の津波、明治から大正への改元等変化も御座いました、この間に実弟二人も呼び寄せまして中田紙函店も段々大きくなり書籍用紙函製造業者として順次改良した設備と人員を以つて大活躍致しました。
大正十二年九月一日関東大震災が起り永々辛苦建設された中田紙函店も一瞬の内に灰になつてしまいました、ここで何とか苦心の末復興致したところ得意先の出版物も焼て少ないので仕事も非常に多くなりましたので昼夜兼行の努力をなし急速に復興致しまして翌大正十三年正月頃には殆ど主家を復旧いたしましたのと主家の長男の方もそろそろ成年に達せられまして主人の許しを得まして大正十三年四月に実弟二人と三人にて独立して加藤製函所を創立致すことになりました。
独立は致しましたが従来の御得意様を全部置いて出ました故御得意先が一軒も無い訳ですから日清印刷会社竹内喜太郎様、秀英舎杉山様、共同印刷東様、などに御願い致し、又其時分以後始めて書籍函を御使用になつたり、又開業されたりなされた改造社、中央公論社出版部 、主婦之友社函入付録、小学館、朝日新聞社出版局様の御用を承り、死線を越えて、西部戦線異状無し等は当時としては大部数のものでした。
かような訳で函の需要が増加して参りましたので順次拡張致して居りましたところ昭和二年改造社の日本文学全集が爆発的人気で一気に四十萬部予約の申込みがあり全部の函を引き受けましたので近隣の家を六軒ばかり買収致し間口十三間奥行八間総三階建の新工場を建設し機械も数十台動力掛けで印刷部迄有る業界随一の設備と能力を有し書籍用紙函の大量生産に専心することになりました。
又、新潮社の世界文学全集も四十五万部程の予約があり其後世界大思想全集十万、明治大正文学全集十五万、大衆文学全集弐拾万部等殆んど手が附けられない程の多数の出版物が続出し当社の書籍用紙函大量生産方式は時季を得まして益々大発展致しました其后にも普及版大菩薩峠十万、マルクス資本論、長篇小説全集、漫画全集、一平全集、ユーモア全集、朝日新聞社の(朝日常識講座)日本評論社(法学全集)中央公論社の(シェクスピア全集)改造社(経済学全集)等続出しましたので設備の充実に鋭意努力致しましたので昭和四年頃には相当の生産力を持ち自家用の大型トラツクにて紙函の運搬を致しましたのは当社が始めてだつたと思います。
昭和六年頃には円本ブームも終りまして全集の函が毎月何%かづゝ減少するようになりましたので製品の方向転換をする為(機械による紙函)の研究に努め発明特許、実用新案等研究と発明の努力がむくへられ五十二件の特許を得まして発明協会から表彰もされましたうち専売特許は包装関係に多く紙函は四十一件実用新案で商品の包装にいさゝか貢献致したと思つて居ります。
このように当時と致しましては大量生産の容器ができました為従来の出版業界の外に味の素鈴木商店、明治製菓会社、宝製薬会社、アイデアル化粧品会社等の御註文も引き受け逆に逆に需要増加致しましたので川崎と日暮里に新たに分工場を建設しまして段々と発展の方向に進みました。

(株式会社の設立)
こゝで内容の整備と永年苦労を共に努力を続けて呉れた実弟や従業員の幸福増進のために昭和十三年四月一日実弟や永年勤続者や功労者を株主として株式会社加藤製函所を設立いたしました。以上のような理由で全株内部保畄で一株も公開いたしませんでした。会社設立後も役員従業員協力一致しまして益々順調に発展致し翌十四年四月に増資又、十五年七月に再増資し日暮里の工場を大拡張致し加藤紙器株式会社(全格本社所有)を設立致し翌十六年には川崎工場を神田和泉町一番地に移転拡張して富国紙器株式会社を設立致しまして愈々本格的大量生産に発展致しました。この時分には函の生産量も書籍五〇%他の函五〇%位で壮観な位の数量を生産致して居りました。
又、御得意先の御要望もありまして重包装袋の研究に努力致しまして「特許自動包装袋」「特許オヤコ封筒」「特許富国封筒」は非常に好評を博しまして全日本国中のみならず外国にまで輸出や分権を行ひました。此方は到底当社に製造間に合わず高砂製袋会社、鯨岡製袋会社、佐野竜栄社等にて辛うじて間に合わせる状況でしたが、この為益々御得意先が増えまして紙函の方が増えて又拡張の時季かと考へて居りました。
折から日支事変が段々大きく成り大東亜戦争にまで拡大され国を挙げて軍事色に彩られ出征と徴用とが相次ぎ役員をはじめ従業員にも出征者多く、又徴用者も続出して到底平和産業のなりた立たない時勢となりました、代表者も先づ発明研究員として補給廠から徴用され工場の製品も資材の配給の関係もあり、先づ海軍軍需部の機関砲弾関係の包装用品(内函と包装函)とに全力を注ぎ製造致し居りたる処、後には工場もろ共に陸軍航空本部から徴用を受け陸軍航空補給廠に配属と決し、ホ二〇三、ホ三〇一、ホ一五五、等の砲弾、爆弾用内罐保護筒などを研究し頗る多数の註文を受け、昭和十九年五月十日に埼玉県大里郡鉢形村に疎開命令が出ました、軍の幹旋で立ヶ瀬公会堂、関山公民館、鉢形村農業協同組合倉庫を借り受け、他に当方も鳥塚織物工場を買収して準備を強行致しましたが資材運輸意の如くならず、然も製品の納入に追われ、やつと一段落して機械類の荷造り中、昭和二十年二月二十五日の大空襲に先ず本社は直撃弾にて全滅し、富国紙器会社も全焼し電話連絡の必要上加藤紙器会社へ仮移転なし疎開工場の建設に必死の努力中昭和二十年三月十日の空襲に依り加藤紙器会社も亦全滅し、こゝに明治四十三年から三十五年間の努力の蓄積も潰滅致しました。
然し砲弾爆弾関係の仕事は一刻も止める事が出来ず、特に爆弾防湿内函や砲弾保護筒の必要な為矢のような督促と受け止む得ず其時は愛国心のつもりで非常の不自由と隘路を開き苦心惨憺の結果同年五月二十日に埼玉工場の開所式を行ひ、七月初旬より一部操業を始め、やれやれと思う折柄翌年昭和二十年八月十五日の終戦に依りまして万事休しました。
終戦後は前記の公会堂、公民館、農協倉庫は急速の返還を要求され止むを得ず東京から連れて行つた全員を一時前記織物工場跡の当社工場に収容し宿泊用に多数の倉庫、物置、蚕小屋迄借りました。食料事情が非常に悪い時代で困りました。
そこで軍の総支払高を全員に分配して一時解散することに決め受領の全額を分配し、又その外に永年勤続者に渡してあつた株券も工場全滅の為め不安だから買取るよう交渉されましたので大部分買取らなければならない立場になり九人の株券を買取りました。
この株券の代金と解散手当とで一切御破算となりました。
そこで当社に永年勤続せる人々に後援して独立開業をすゝめ続々独立し、弟の三吉は加藤製函印刷株式会社を創立し、富国紙器株式会社の跡は株式会社松村紙器製工社に、加藤紙器株式会社の跡に加藤紙器製作所、その他印刷所、製函所を開業する人が続々と出ました。この人達は独立工場主でありながら、又一方では当社協力工場として現在に至つて居り頗る順調に発展し、又よく連絡され運営されて居ります。
又、一方当社にとゞまる人達も多く出ました為めに昭和二十一年埼玉の工場の設備を改造して仕事を再開することに決め、まづ化粧品用薬品用の丸函、絞り函、抜函の紙器類を製造致し、永年の古巣の神田の焼跡を整備して先づ営業部を設置致しました。其内段々書籍のケース類も出て参りましたのと御得意様のおすゝめもあり四十余年苦心した書籍函の製造も致す可く神田に工場を建築して人員を順次に東京に呼び戻し昭和二十四年には埼玉工場を廃止することに決めまして東京の加藤製函所を本式に増築整備する事になりました。
幸いに永年の真面目な営業と信用に依りまして非常な御愛顧を受けまして急速に復旧に向い始めましたので全員一致協力致しまして年ごとに発展致しまして昭和三十五年現在では旧敷地の約半分の建物と動力ロータリー断裁機A自動筋押機大小AA他二十数台とオート三輪車、オートバイ等を準備致しまして一生懸命に旧に優る工場に致さうと努力致して居りますがまだまだ理想の設備に至りませんので困って居ります、然し御得意先の絶対の御信頼によりまして受註高が急速に伸びまして益々多忙になりますので段々に設備を増強致しまして永年の御得意様の御信用にむくゆるため努力致して居りますのでその内に完成致すことゝ固く信じて居ります。


経歴書-昭和34年11月 初代社長 加藤政次郎により作成